語録佐野さんの最も有名なご発言を紹介します。このお言葉は、コンビニ本の名言集にも掲載されていました。 「おもしろい」ということは、低俗という意味ではない。 「やさしい」ということは、難しくないという意味ではない。 このご発言から、佐野さんが何を仰りたかったのか、少し考察してみます。 世の中には、漫画、ゲーム、アニメというだけで、教育に悪い低俗なものと決め付ける人がいます。 果たしてそうでしょうか? ゲームやアニメに限らず、この世には他にも様々なエンターテインメントが存在しますが、それらは、どれも「面白い」という点で共通しています。 他にも様々ありますが、それらは、どれも「面白い」という点で共通しています。 面白いということは、興味をひくということです。 人類はいつでも何かに興味をひかれ、研究し、失敗を繰り返しながら文明を築いてきました。 面白さは進歩の源です。 いかに下らないと感じるものでも、興味をひかれる人がいれば、それは評価に値し、研究対象になり得ます。 子供の頃、○○なアニメを見たり、漫画を読んではいけないと、大人から注意された方はいらっしゃいませんか? どんな漫画やアニメからでも、学ぶことは多いはずです。 一見しただけでは低俗にしか思えない文化でも、それに触れ、実際に肌で感じ、こんなものがあれば面白そうだと想像するからこそ新しい技術が誕生し、より素晴らしい文化が育ってゆくのです。 むしろ、そうした文化の中にこそ筆舌に尽くせない価値がある。 要するに、面白い何かは低俗でないばかりか、人類にとって、かけがえのない宝であると言えます。 しかし、新しい何かを生み出す過程で、いくつもの壁に突き当たる時があるかもしれません。 簡単に思える問題ほど、複雑で難解な意味を持っていることがあるからです。 1+1は本当に2でしょうか。 突き詰めて考えると、そう言い切れないケースも存在することに気付くはずです。 広く深い知識を身に付け、視野が広くなればなるほど、やさしい問いかけほどに、ますます正しい答えが分からなくなります。 数学や電子工学、計算機の世界で用いられる、XOR(エックス・オア)とも呼ばれる排他的論理和(はいたてきろんりわ)の観点では、0は偽、1は真、1+1は0です。 プログラミングや数学に造詣深い佐野さんであれば「1+1が間違いなく2である」とは答えないのではないかと思われます。 排他的論理和の知識を持たない人々の目に「1+1を0かもしれない」と言及する佐野さんは、無知で非常識な人間に映るかもしれません。 しかし、実際「計算機の仕組みなんて知らないよ」という方が多いと思われるので、排他的論理和を知らない人々を知識薄弱と切り捨てるのも気の毒です。 それでは、これを文学に照らして考えてみましょう。 皆さんは「君と私が力を合わせれば、1+1が3にも4にもなる」とした表現を耳にしたことはないでしょうか。 この場合、1+1は2ではなく、3でも4でもあります。 仮に、この言葉を知っていても「1+1はいくつか」と聞かれれば、算数の問題と固定観念を持って思考し、それ以外に考えが及ばなくなる人々が大多数なのではないかと思われます。 つまり、そういうことなのです。 これは数学に限った話ではなく「いや、どう考えても1+1は2でしかない」と思考停止される方では、佐野さんのお言葉の本当の意味はおろか、もしかしたら、その欠片すら理解できないかもしれません。 他者と異なった見解を論じる人間は、得てして非常識だの、無知だの、偏屈だのと揶揄される世の中ですが、ふと思い返せば、そういう人物こそが誰よりも博識かつ常識人であり、新境地を切り開き、歴史を動かしてきたことに気付くはずです。 かのアイザック・ニュートンも、ガリレオ・ガリレイも、レオナルド・ダ・ヴィンチも、アルベルト・アインシュタインも、トーマス・エジソンもそうでした。 ニールス・ボーアやアラン・チューリングに対しても、非常識、奇人、馬鹿と罵った真の大馬鹿者が数多くいたそうです。 それでも(地球は)動く。 佐野さんのお言葉の、特に『難しくないという意味ではない』の部分を読み解くには、マイケル・J・サンデル教授の著書も参考になります。 それでは今一度、佐野さんのお言葉を振り返ってみましょう。 「おもしろい」ということは、低俗という意味ではない。 「やさしい」ということは、難しくないという意味ではない。 佐野さんが何を聞かれてこのご発言をなさったのかは分かりませんが、このようなお言葉を即座に組み立てられる人物は滅多にいないのではないでしょうか。 次は愛知の地域情報誌ゆいまるくらぶの巻頭特集記事に掲載されていた一言。 何になりたいかではなく、何をしたいか。 小さい頃「将来何になりたい?」と、質問を投げかれられた人は少なくないと思います。 本ファンページの運営者も、幼少期に親類縁者や教師から例外なく聞かれました。 ただ、このお言葉を目にするまで、その問いかけの ”薄っぺらさ” に気付くことはできませんでしたが。 実際、スポーツ選手になりたい、教師になりたいと夢を持っている子供たちは多いです。 その夢が何なのか、両親や教師であればなおさら気になるでしょうし、子供にこう尋ねるのは必然と言えます。 それに、夢を実現するための近道として肩書きを得たり、それを啓発することは有意義なのでしょう。 しかし、たとえば教師として生涯を終えたとしても、優れた後進を育成できなかった者の肩書きには一銭の価値もありません。 下手をすれば「教師にもかかわらず」と揶揄されてしまうかもしれません。 言いかえれば、教師でなくても、優れた後進を育てたのなら立派な人物です。 肩書きを持つ者が同じことをするより、評価される可能性さえ考えられるのではないでしょうか。 では肩書きとは何なのでしょう。 医師を目指す方は、なぜ医師になりたいのですか? 免許を得て、皆からチヤホヤされ、お金を儲けて裕福な生活がしたいから? そうした人物を、世間は「名医」と呼ぶのでしょうか。 この世には、弁護士にしかり、政治家にしかり、漫画家や小説家など「先生」と通称される職業が無数に存在します。 たとえ敬われていない人物でも、そうした職業に就いているだけで「先生」と呼ばれる、いわゆる先生職が沢山あるのです。 一方、そうした先生職に就いていない佐野さんを「先生」と呼び、慕う方がいらっしゃるのはなぜでしょう。 それは、佐野さんが真の意味で先生であり、尊敬に値するからではないでしょうか。 こう考えると、このお言葉の本意が見えてきます。 目標を達成するのが道であり、その道を照らすのは肩書きではない。 心がふるえました。 短いお言葉の中に、人生の真理が隠されています。 |